かたりのか〜にばる

読書記録を中心に綴っています。

法廷は演じる場

しばらくは個人的に知ってるけど、じっくりと読んだことないシリーズ。(前回も同じ)

ソクラテスの弁明』The Aplogy of Socrates

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ここで書きたいことは「裁判」「神」 についての2点かな。

 この本はタイトル通りソクラテスの弁明が語られているものだが、裁判を扱った文学作品は数多くある。(ちなみにこの本は研究の世界では作品ではなく事実を記したものとしてとらえられているよう。)

例えば、『ヴェニスの商人』『アメリカの悲劇』『Native Son』などはすぐに挙げられるし、ディケンズもたくさん描いている。

 

以下はごくごく当たり前のことだが、記録のために残しておく。

 

A.神が絶対としつつも、実際に人を裁くのは人というシステムは、現在においても考えなければならない問題。裁く者に降りかかる問題である。またソクラテスの鋭い指摘がたまらない。

 

さて、私を有罪と断じたる諸君よ、私は諸君に向かってこの後に起こるべき事について予言して置きたい(中略)諸君が私に課したる死刑よりも、ゼウスにかけて、さらに遥かに重き罰が、諸君の上に来るであろう。今諸君が、この行動に出たのは、そうすれば諸君はもはや諸君の生活について弁明を求められなくなるであろうと思ったからである。しかし私は主張する。諸君には全然反対の結果が生ずるであろう、と。今よりもさらに多くの質問者が諸君の前に出現するであろう(64)

 

まだ続くけれども、この辺りで切っておく。

人が人を裁くことの重さを語っている。現在この国でいえば裁くのは、裁判官ということになっている。陪審員も匿名。それでも、このソクラテスの言葉は無視できない。特に陪審員は、匿名のはずだから、誰から聞かれる訳でもないであろう。しかし、出した答えが正しかったのか否か、常に自問自答という形で自身に問われ続けることになる。それなりのトレーニングを受けているとはいえ、判事も同様であろう。ソクラテスの指摘は、より長いスパンで降りかかる精神的負担を指摘していると読むことが出来る。

 現在の日本でいえば、自身の決定が全てではないにしても、多かれ少なかれ判決には影響を与える。しかも、二審に進めば陪審員を用いた一審の判決すらひっくり返る制度。一個人のメンタルに負荷をかけておきながら、判決が翻る制度そのものは如何なものか?など、多くのことを考えされられる。

 また、裁判が1つのパフォーマンスであることもソクラテスは教えてくれる。

 

諸君、諸君は恐らくこう思われるであろう。私が有罪となったのは言葉の不足によるものであると、いいかえればもし私にして、有罪宣告を免れるためには、どんなことでもしたりいったりしてのけてかまわないと信じてさえしたなら、言葉次第で諸君を説き伏せることも出来たであろうに、と。しかしそんなことは思いもよらない。もとより何かの不足があったために私は有罪となったのであるが、それは決して言葉の不足ではなくて、厚顔と無知と、諸君が最も聴くを喜ぶような言葉によって諸君を動かさんとする意図の不足である。すなわち私が泣いたりわめいたり、その他私が私に不似合いであると主張するものでしかも諸君が他人からは聴き慣れている如き幾多のことを、したりいったりしなかったためである(62-3)。

 

単に無実であることを立証しただけではその目的を果たさないということ。これは、実際に裁判に係わったことがないので分からないが、判事や陪審員も人、人の心を動かすだけのパフォーマンスが必要であるということだろう。まあ、このブレを無くすために判例が存在するのだろうが。

 少し視点を変えると、一個人もしくは集団を動かすためには、対象が期待することを演じなければならないということ。演者(ソクラテス)が、己の演じたいように演じた結果が、死刑とするならば、役者としてはダメ出しを食らったことになる。期待される人物像を表現出来てこそソクラテスは自身は無罪を勝ち取れたと、自覚している。少なくともそう語る。本当にそんな展開になったかどうか分からんが。

 また、死刑/死に対して怯えろという集団の期待へ応えろということだろうが、死を怯えるという心理が前提。生にしがみつくのは生きとし生けるものの性。それがないことでソクラテスは異質として見なされたということになるのか?という疑問も湧いてきた。

 

B.神

 

諸君、真に賢明なのは独り神のみでありまた彼がこの神託においていわんとするところは、人智の価値は僅少もしくは空無であるということに過ぎないように思われる(27-8)。

 

キリスト教以前でも人々の意識の中で神は絶対なのかと、単純に思った。日本で考えてみると、神が絶対という感覚はやはりないように思われる。民間信仰神道は万物に神が宿るが、人が創造れたわけではないし、宗教である仏教て、仏は創造主として存在してるわけではないし。やっぱりここは西洋と異なる点であり、哲学や生活におけるものの考え方が異なる大きなポイントである。優劣ではなく、同じレベルで学ぶ姿勢を持たないと、どちらも危険な思想に繋がりかねないし、学術やるにも広がりが出てこない。

 

海外では「無」の価値観や捉え方の研究か進んでいるようだが、日本はまた必死に西洋哲学を追っている。放置して忘れるんじゃなくて同時進行を目指さないと。という最後はよく分からんことになった。

 

ではでは。