かたりのか〜にばる

読書記録を中心に綴っています。

好きな作家

お題「好きな作家」

最後の記事から、論文を書き始めてしまった(いや、書き直しを始めたというのが正しいか)のと、まだこのブログに慣れていないこともあって、ちょっと横道外れてみようと思う。

少しいじっていたら「お題」なるものが出てきた笑。まぁ、面白半分で乗っかってみるか、ということで書いてみることにする(ほんとは他の人のブログを探したいのだがそれすら分かりにくい。選択をミスったか?笑)

さて、「好きな作家」ということなのだが、これまた難難題である。見つからないとか、いないという答えのないものを無理に探そうとするからではない。むしろその逆である。これは、何か好きなものがある人なら共有できる悩みであろう。例えば、海外旅行が好きなら「好きな国」とか、コーヒーが好きなら「好きな豆」とか、そういった類の質問だ。これに迷わず回答できるとするなら、よほど芯の通った方だとお見受けする。

さきほどいったが、これほど難しい問題はない。特に作家となると、物語そのものが好きなのか、文体が好きなのか、それとも作品から離れた実際の生き様が好きなのか、色々視点はあるがとりあえず好き勝手に挙げてみることにする。因みに、挙げていく順番が好きな順というわけではないので悪しからず。思いつくまま、気の向くままでしかない。

まずはウィリアム・フォークナー。難解な文章で噛んでも噛んでも味が出てくるスルメのような文体、表現がたまらない。個人的には『八月な光』のイントロの部分は、南部に住んでいたこともあるので今読み返すと懐かしささえ覚える。初めて読んだのは学部生の頃。確か課題図書だった気がする。この時は目の前に知らないアメリカが広がった。都会のアメリカ文化に惹かれて夢中にになっていた僕にとって、このど田舎のアメリカはまた別の国のようなものであった。それはそうと、この作品の冒頭を読むと『おースザンナ』を連想してしまうのは僕だけだろうか?確かこの歌バンジョーひっさげて南部アラバマから西へと向かうう内容だったような。それはさておき、一人目はフォークナーということで。

次、トニ・モリソン。モリソンはかなりフォークナーの影響を受けている気がする。本人が何といっているかは、モリソン研究者ではないのでわからないが。多分否定してるだろうな。という憶測。モリソンの作品は中学生で初めて第1作目の『青い目がほしい』を読んだ。当時はさっぱり意味がわからんかったのを覚えている。ただ、読んでいて腹が立ったのは間違いない。ピコーラがなぜあんな目に合わなきゃならなかったのか?何でそんな話にしたのか?誰かが手を差し伸べる可能性を模索しなかったのか?など。それから約10年後、卒論でこの作品を扱った。なんども読み返したが、今度は論文の書き方がわからず(今もわかってないに等しいが)しょうもないことを書いて終わってしまった。この時ほど我武者羅に勉強して学問をしておけばよかったと思ったことはない…いや、今でも思ってるかも。モリソンの作品はそれなりに読んでいる。『ラブ』『マーシー』あたりからはさっぱりだが。『スーラ』『ジャズ』『ソロモンの歌』『ビラブド』『ターベイビー』とあらかた読んだ。どれも面白いし、文体にもこだわって書かれている。これもまたスルメのようなもの。『ビラブド』もいいが、『ソロモンの歌』や『ジャズ』もたまらない。こうやって書いているうちにまた読みたくなってきた。

3人目は、セオドア・ドライサーかな。『シスターキャリー』も『アメリカの悲劇』もどちらも好き。モダニズムやポスモも好きだが、基本的には自然主義文学が好きなのかもしれない。あの最後に何も残らない感じがたまらない。あめりかだけにとどまらず、「欲」を追求していった結果待ち受けるのは虚しさだけというのは、いつの時代にも通用するものだと。今の日本の人たちに読んでもらいたい。この先のびやしない経済活動を追い求めて何が得られるのかもう一度考えるためには、一つの手がかりになるのではないか?そんなことはさておき、『シスターキャリー』でキャリーが舞台女優になる筋なんて、アメリカ、ニューヨークの華やかな世界を描いている。それでも女優はあまりいい仕事だとは思われていなかったのだけど。19世紀の作家エドガー・アラン・ポーの母親は確か女優だったはず。まぁ、ドライサーよりも世代が上だからより厳しかったのかもしれないが。

19世紀つながりだと、ハーマン・メルビル。そしてやっぱり彼、サミュエル・ラングホーン・クレメンズ。またの名をマーク・トウェイン。メルビルもトウェインもかなりコミカルな内容。トウェインは言わずもがなか。メルビルは『白鯨』のイメージだろうが、「バートルビー」なんて結構笑えておもしろい。トウェインの『ハックルベリー』は何度読んでも新しい発見がある。研究の世界では大量に研究が出されているから言い尽くされているのかもしれないけれど、どうなんでしょう。

20世紀中頃から後半にかけてでいえば、ジェームズ・ボードウィンかな。彼はすごく繊細な文章を書くのでサクサク読めるわけではない。代名詞使ってうまく距離感を出したりして、ネイティブじゃなければ注意して読まないとその微妙な揺らぎについていけない。そんな作品。『山に登りて告げよ』は代表作、もう一度読みたい作品。エッセイなんかも凄く味わい深いし、未だに研究出されている。ボールドウィンの専門誌があるくらいだから。

まだまだたくさんいるけど、アメリカではこの人を最後にしておこうか。ジュンパ・ラヒリ。『その名にちなんで』が有名かな。この作品は翻訳でしか読んでいないので、原書でもう一度読みたい。舞台は確かニューイングランド、ボストンだったかな?うろ覚えすぎる。これもマイノリティの話。大雑把に言ってしまえばアイデンティティの揺らぎとか微妙な心の揺れや葛藤などいろんなことが描かれている。また、違うアメリカが見えてくる作品。

国をイギリスに移してみると、やはり最初にくるのはウィリアム・シェイクスピアかな。どの作品も面白いし、悲劇であってもコミカルな要素を入れている。それがミソなのだろうけど。アメリカの文学にも影響してるし、そのほかの国にもだろう。シェイクスピアはもともと元ネタがあってそれを参考に書き換えているから、ヨーロッパ諸国へのというよりはお互いに影響しあったというのが正しいかな。

他にはチャールズ・ディケンズ。文の書きっぷりがすごい。情景が浮かぶし、まるで映像を見ているかのような気分にさせる。うまく表現できないけど、ちょっとお洒落な感じの表現もある。読んだのはずいぶん前だから、もう一度読んでみたい。そういえば、昨日キンドルで『大いなる遺産』と『二都物語』原書で手に入れたところ。いつ読めるかな?

モダニズムでいうならヴァージニア・ウルフとかジェームズ・ジョイスとか。どちらの作家も難しくて、実は読みきったことがない…あ、ウルフは学部の頃に何冊か読んでるな。記憶が薄れすぎてる…。人間の良いところかもしれない。また読む楽しみができるから。

他にもまだまだいるけど、イギリス最後はカズオ・イシグロ。この人の文章は初めて読んだ時、大学受験生が書いた英作文かと思った。レベルが低いということではなくて、文体が受験英語もしくは日本語をベースに英語を書きましたという感じの文体。こうなると、英語文学の新境地とはここなのかもしれないなと、ノーベル賞受賞の時に感じた。意識の流れとかモダニズムが模索したような芸術としての要素は、書かれた英語という言語の背後に潜む他言語の影響なのかも。

さてさて、「好きな作家」ということでいうならこのくらいでしょうか?まだまだいるけど、書くのも流石に疲れてきた。

あ、一つ、日本文学ないって言われそう。ま、読者ついてないから誰もがそんなことは言わないでしょうが笑。日本文学は実は意外に読んでる。でも、全くと言っていいほど記憶に残ってないのです。漱石の作品、鴎外、芥川のいくつかくらいかな。記憶にないという点からすると、おそらく日本文学が僕の人生にほとんどなんの影響も与えていないということなのかもしれない。残念だが、僕個人としてはそういう結論に今のとこら至っている。

最初にも書いたが、こたえを一つに絞れるようなお題ではないので、列挙させていただいた。おそらくこれがまともな回答であろう。でなければ、尋常ではないくらい芯のある人か全く本を読まない人かに違いない。おそらく後者が大半であろうが。読みたい、読まなければという本が積読状態で減るどころか増える一方。内容だけをさらっと追えばいい知識のための本ではないからなおさらだ。文学作品もしかり。本腰入れて楽しむとなるとぐっと読むスピードは落ちる。まぁ、それは仕方ないことだ。むしろ積読があることは幸せなことである。まだ知らない世界からそこに広がっているのだから。